2017年4月14日金曜日

投釣のすゝめ

どうも皆様おはようございます。
万太郎です。



先頃はカテゴリーとしては浮き釣りに没頭している私であるが、昨年の高須で基本装備としていたのは投げ竿である。



 投げ釣り。

私がまず 投げ釣りを選択したのは、浮きの付け方がわからなかったからである仕掛けがシンプルだからである。

おもりと針を結びつけるだけだ。

「結ぶ」という釣技さえ身につければ作れる仕掛けだ。

そして固くて長すぎない釣竿。

これも取り回しが楽で、分かりやすい。

そして、重ければ重いものほど良く飛ぶおもり。

頑丈な糸。

大きなリール。

すべては実直な男を感じさせるものばかりだ。


 この一式を、ゆっくりと、そして大きく振りかぶり、静から動へ、全身の力で全身のバネを使って、下半身から上半身へ、爪先から指先へ、そして、釣竿へ。

大海原へ、投げるのだ。



 海洋投棄は禁止されている。

しかし、投げ釣りでは正当な理由を持って、 推奨される行為として、仕掛けを大海原へ投げつけることができるのだ。

青空に向かって真っ直ぐ飛ぶイソメ。

狙った場所に着水しようがしまいが、文句を言うものは誰もいない。

ゴルフのドライバーはこれに酷似した行為と言えるだろう。

だが、ゴルフのそれは少しでも手元が狂えば、自分で、もしくは人の手を借り、ボールを捜索し、ボールが見つからなければ打ち直し、隣のコースになどいってしまった場合は「ファー」等と叫び、危険を知らせなければならない。

よそ様にまでご迷惑をお掛けするのだ。

野球もそうであろう。

打たれた白球は、第三者によって捕獲される。しかし、大抵の場合は 周辺住居に飛び、窓ガラスを割り、大事な植木鉢を壊し、かわいい飼い犬の頭に叩き付けられる。

そして、その集団の弱者が謝罪をし、白球の回収に当たるのだ。

この数多なる事象から例外的に存在するのが、投げ釣りであり、すべてを己が一人で完結するのだ。

これほど、潔いスポーツはないだろう。



  私の投げ竿は以下のようなものだ。



決して自慢できるようなものではなく、左のものは投げ釣りをしたくなった前日に近くの釣具やで3000円で購入したものである。

翌日の釣り行で手前のガイドが壊れ、その日からギマの悪夢が始まったのだ。

右のものは、ガイドが壊れた釣竿の悲しみからその翌月に釣具中古屋で購入したもの。

一方は壊れ、 一方は使い古されたものだが、まだまだ使える頑強さを備えている。



 それにしても、投げた後の投げ釣りは大変優雅なものだ。

竿先に鈴でもつけておけば昼寝などをしてもよい。

昼寝が許される貴族のスポーツと言えよう。

そして、全力で投げたかの地で、いざイソメがピンチに見回れると、鈴が、鳴る。

私はイソメの身を案じつつ、どのような魚が襲いかかってきているのか思いを馳せる(ギマ)。

得たいの知れない魚(ギマ)の強烈な引きを感じつつ、竿を振り上げる。

リールを巻くと、魚の抵抗が強くなり、まだ見ぬ遠方のこの魚が身近に感じられる。

果たして、何が、どんな魚がお目見えするのか、胸が高鳴る瞬間だ(ギマ)。

それを釣り上げる時には、くじ引きや宝くじのようなギャンブル性、おみくじにも似た占い要素まである(ギマ)。



 しかし。

都内の釣り公園では投げ釣りはなかなかできないだろう。

高須海浜公園ではできるが、私もできれば広大な浜から海原へ向かって投げてみたい。



 そう、私の投げ釣りはこれからだ

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