どうも皆様おはようございます。
鴨ノ万太郎です。
年末だ。
今日のこれは儀式である。
それは平安の頃、新年に備えて皆慌しく掃除を始める年の瀬、釣り好きのお大臣と安倍晴明が釣り場に来た際、カゴつり用のカゴを式神により召喚しようと試みたものの、風邪を煩わせていた晴明はカゴではなくカモを呼び出してしまい、釣りにならずにカモが魚を取る様子を眺めていたが、これが実に愉快であり、安倍晴明のこの後の出世に大いに貢献したと言う話しに由来している。
撒き餌を投げてはカモが食う。
それではカゴに入れて投げればよい。
そんな、そもそもの提案とは違った発想により、カゴを使う。
いや、これは儀式なのだ。
まだまだ、日の出る気配はない、寅の刻、4:15。
若洲に到着。
12月30日だ。
この寒い、また誰しもが家の仕事で忙しいであろう今日、釣りをしようなどと言う輩はいない。
と、端から見たらそう思えるかもしれない。
しかし、そうではない。
今日は儀式の日だからだ。
釣吉万太郎こと、晴明の血を受け継ぐ私がこの日を意識した時に、この地域の磁場は大きく変動し、人々の脳波に干渉する。
釣りに行こうと言う意思が萎えるのだ。
これでよい。
私はひと気のない人口磯にてかごの準備をする。
そして撒き餌をしっかり詰める。
冷たい風が吹いてくる。
その風に抗うかのように、カゴを海に投げる。
まだカモの気配は感じられない。
まだだ。
私は根気よくその刻を待ち、浮きを注意深く観察する。
暗い海の、小さな波に上下する浮きから発する灯り。
この灯りの意味が彼らにはわかるはずだ。
小さな波が月明かりに照らされて小さな凹凸の影を形成する。
小さな影は自由に動いているように見えるが、そこには大きな意志が感じられる。
更に神経を集中して浮きに目を凝らす。
すると。
影が。
明らかに波の影とは違う、存在感を持った影が浮きの周辺に漂う。
牡蠣の貝を蟹がかさかさと傘のように被り、空の缶を神の亀と勘違いして、過去に貸した鍵と鴨の顔の影を糧に、掛けで感じた風で東に梶を切った。
徐々に空は明るくなり、かもの姿は1羽が2羽、2羽が4羽と明るみになる。
カゴで撒き餌を使っていると杓で撒くより減りが遅い。
余りのあるそれを杓で撒いてい見る。
思ったとおり、カモは撒きえに群がり、撒きえは雲散霧消する。
自分の足元より、10間の距離にカモが姿が20羽ほどになり、これにより儀式は終わる。
祈祷は海に届き、空がそれを了解し、大地がそれを見守った。
これでまた翌年、安泰なはずだ。
納竿。
駐車場への道すがら海を眺める。
と・・・。
予想していたよりも、悠に多い鴨の量だ。
これが吉とでるのか凶と出るのか。
ボーズ。というより、これは浮き釣りじゃなく、錘に虫が正解ですか。釣りにならないもの。だって。
0 件のコメント:
コメントを投稿